神聖な自分

自分自身が何者なのかを思い出す。

先日、神域にてセミナーに参加させていただき、何者としてあるべきなのか、深く学び、また、思い出させてもらいました。

何者として生きたいのか。それは、自分自身によく問いかけきた言葉でもあります。

人は、様々な望み、願い、記憶、人格を持っていて、状況が変わるとそれらが入れ替わってしまいます。けれども、どんなに数多くの人格がいても、中心にあるのは、神聖な自分自身。ハイヤーセルフの声を聞き、人も周りも栄えさせる、神聖な存在。


思い返せば、私の場合、昔から、周りの人がもし、わかってくれないなら自分でやればよい。と、個人行動をとってしまいがちでした。
平たく言えば、個人行動が得意で、集団での行動は苦手としてきました。

けれども、社会に出て仕事をすると個人主義ではいられず、考えの違う人達とも過ごしていく事を必然的に学びました。

道に学び、触れるようになってから、自分自身の感情を我慢して抑えているだけでは、結局は何も変わらない、それを感じられるようになってきました。

日常でも、感情に揺さぶられて、ザワザワしている時ではなく、今の自分は何者なのか、と、問いができる時は、ふと、自分自身を俯瞰して見ることができます。感情に揺れるエゴの自分か、神聖さに沿った自分なのか。

それが意識できている時は、日常でも、争いや、諍いではなく、なぜかスムーズに物事が流れて行くのを感じる事ができます。

その視点は、これからも自分で持ち続けていこうと思っています。

                                       eye