超える瞬間

変わる、という事。何かを変えようとする時、そのために恐怖と向き合う勇気が必要だったり、意志力が必要だったりします。


ふと、学生時代のことを思い出しました。受験や試験勉強で、がんばらなければいけない時、自分自身の記憶力をふる活用して、知識を詰め込むような勉強をしていきますが、義務感で頑張っている時は、試験だからやらならなければいけない、という義務感によるところが大きいです。それは、意志力を行使するものの、抑圧して頑張っている状態です。

ところが、人とは面白いもので、最初は義務感からやっていても、勉強の内容に没頭して、集中して、それが理解できてくると、いつのまにか、その知識を学ぶ事が面白かったり、楽しく感じるようになってきます。

学校の授業も、やらなければいけないから、という義務感から聞いている時は、おもしろくないどころか、眠くなったり、逃げ出したくもなりますが、授業の内容を前向きに理解したり、集中して取り組んでいると、いつしか、授業で講義を聞くことが、新しい知識や、捉え方を自分にインプットしていく、興味深い面白いものへと変化していきます。

その感覚の違いは、本当に面白いもので、大変さの中の楽しみ、最初はできなかったものが、理解できるようになった楽しさ、とでも言うのでしょうか。

それは、人生の問題への取り組みにも似ているような気がします。とりかかる前は、とてつもなく大きな壁に感じられても、何とか、それを越えようと努力したり、工夫していくうち、壁を超えられるところまで実力がついてきて、工夫や努力の方法を考えだすこと自体が面白く感じられたりします。その、自由な感覚になっていると、いつのまにか、壁をこえていた、という結果を出すかとができます。


エゴの力や思いからの努力感だと、努力感や、かんばっと達成感を大事にしていたりしますが、神聖さに結ばれた、意識から、超える瞬間は、あの、方法を考えだすこと自体を楽しむ、自由な感覚似ていて、そこに自分がある時は、悲壮感のある努力ではなくなってきています。

楽しみながら、進む、とはきっとこういう事なのでは、とも思います。

                               eye