道標

社会人として、新人から少し慣れた頃、大きな責任を伴う仕事ををまかされた事がありました。

 
 
その時の自分は、自分の頑張りや成果を認めてもらいたくて、日々、がむしゃらに頑張っていたのですが、人の言葉や態度に全ての重きをおいていたため、評価が思わしくないと、それについてクヨクヨと考えて、疲労していた頃がありました。
 
 
思えば、子供の時は、親に褒めてもらいたくて、期待に応えたくて、社会人になってからは、自分より立場が上の上司に優秀な人材なのだと認めてもらいたくて。
 
 
期待に応えるために、努力をし、思うような評価をえられている時はよかったのですが、時には、評価がずれてくることがありました。そうすると、まるで周りのものや出来事が、自分自身を否定されているように、自分を攻撃しているように感じ、心も体も疲労していくようになりました。
 
 
疲れきっていたその時の私自身に必要だったのは、
 
自分自身のがんばりを認めて、力を抜くこと。期待している相手もそれなりにがんばって生きている結果の態度で、相手の態度の自由を許すこと、とでした。
 
 
何かに囚われてしまうと、その相手が何かをしてくれないと、その相手が変わってくれないと、相手次第で自分自身の全てが決まってしまいます。不自由なこと、とわかっていながら、意外に落ち入りやすい心の動きです。
 
それを変えるには、まずは、自分自身の中に、神聖な創造からの道標をつくること。
祝福や感謝の気持ちを思いだすこと、です。
 
 
自分自身のエゴの力でなく、こころの内、神聖さからの力は、リラックスした、意思を通して、相手に浸透していく、ぶつからない、摩訶不思議な力です。
 
 
その学びの場は、きゆるぎ、です。
 
 
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