誤解なんて誤解だ〜


最近、「そんなつもりではなかったんだけど。。。」と思うことがいくつか続けてありました。
どれも一つ一つは些細なことなのですが、
これは何かのサインかな、と思って、ひとつひとつ見直してみました。

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「誤解された」にとか、「〜された」とか「〜してもらえなかった」と思うとき、
それは、必ず自分がそれをつくりだしています。

たとえば、
何かを教えてもらったとき
せっかく教えてもらったのに、それに対して怒ったり文句を言ったり、忘れてしまったり…
そうすると、
「なんだ、せっかく教えたのに、そんなんだったら、もう教えなくていいか」
と、もう教えてもらえなくなります。
それは、「教えてくれない」のではなく、
「教えさせない」ように自分が創り出した現実

でも、それがわからず、
「教えてくれない!」とさらに怒ったり文句をいったりするので
さらに「教えてもらない」という現実を創り出していきます。

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ほんのちょっとの誤解も、何かどこかで必ず自分がそう「思わせる」何かをしている
そう思ってみてみると、
それが些細なことであればあるほど、自分のことを繊細に見ていく必要がある
そのとき、そんな表情をしていたかな、どんな声だったかな、どんな仕草をしたかな…

でも、そうやってみ出すと、本当にどこまで行っても自分
そして、周りのすべてのものが、本当に自分のやったこと、言ったこと、望んだことでできてい
るんだ、
ということが、パズルが解け出すと急に一気に解けるように、だんだんと飲み込めてきました。

そして、ちょっと自分の意識を変えてみると、すぐに言葉も行動も変わり現実に顕れる
だから、あーほんとうに自分が創り出していたんだな、っていうことがまたさらに実感できまし
た。

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本当は誤解なんてない

どんなふうに思われるか、どんなふうに扱われるかは、自分の望んだこと

自分を変えば相手も変わるし、人生が変わるし
自分の見ている世界は自分の世界
だからみんなひとつだし、相手のことは自分のこと
どんな世界を生きていくかは自分がきめ、自分が望み、自分が創りだしていける


大きな大きな宇宙に、ポンと頬りだされたような感覚と
どこまでも広がる制限のない自由な世界を感じた瞬間


これから自分で自分の世界を創っていこう
そんな新たな決意が生まれました。


きんとうん